右腕の気まぐれにブログ

気まぐれに書いていこうと思います。

昔から車好きだが、右も左も分からない自分がレースメカニックになった経緯と理由 その3

さて、このシリーズも第3回目・・・思ったより上手くまとまらなくってgdgd気味になってるかも・・・。

申し訳無いがもう少しお付き合いの程よろしくお願いします。



筑波のレースもチャンピオン取って次はどうするのかと思いきや、はやとが「次インテグラワンメイクレースに出ようかと考えてる。車も買った。そして今年の最終戦に出ようと思う。」





( ゚д゚) ポカーン・・・
 
(つд⊂)ゴシゴシ
 
(;゚д゚) ・・・
 
(つд⊂)ゴシゴシゴシ

(; ・`ω・´)ナン…ダト!?






当時のはやとにはホント驚かされる事ばかりだった・・・。

ま、確かにはやとはチームオーナーだし本人が出る事なので俺自身とやかく言う事では無かった・・・てか、言う隙もなかったのが正直なとこ?w

この当時の俺のチーム内のポジションっていうと、チーム4人中

チームオーナー兼ドライバー:はやと
チーフメカニック:額田倫太郎
カニック補助兼雑用:右腕(自分)
カメラマン兼雑用兼賑やかし:K氏
その他に1人、自分は会った事無い人だがはやとと倫太郎と3人でチームGETWINを立ち上げた人が裏で動いてて(それらは後日知った)はやとと倫太郎とその人がレースカーの所有、機材、その他チームの動向の決定等してたので自分とKさんはお手伝いさん的なポジションであった。ま、うちらはそれでも全然良かったし、それのお陰で色んなレースを裏で見れたり貴重な経験もできたので特に気にもしていなかった。後時たまレースクイーンとしてコスプレイヤーのNさんが参加してくれて華を添えてくれましたw


そんなこったで、2005年11月19,20日・・・ツインリンクもてぎにて「スーパー耐久シリーズ2005第8戦」の前座戦「ベルノエキサイティングカップ インテグラワンメイクレース関東戦Rd.5」に出場。自分としては初めてのもてぎなのと、この時にDC5インテグラとの初対面、そして使うタイヤはスリックタイヤ、国内レースのトップの前座という色々初めて尽くしでテンションも上がりっぱなし!でも、こんなとこでうちらこの後やって行けるのか?って反対に不安もあったり・・・でもうちらやる事は今までと一緒。倫太郎に言われた事を淡々とこなし手伝うだけだった。そして結果は・・・

予選
http://www.twinring.jp/result_m/2005/big/1119_31p.html
決勝
http://www.twinring.jp/result_m/2005/big/1120_32f.html

因みにはやとのゼッケンは11番ですw(本名だが本人も公表してるのでw)


マシンは購入したままの色々不具合が出てる中、はやと自身初めての車・・・。周りはほぼトップクラスの人らの中でのリザルトなのでまぁ~こんなとこ?って感じwでも今までとは違うとこなんだっていう事は、素人の自分でも肌で感じることだった。そんなこったで来年に続くのである・・・


2006年、自分がチームのメカニック?!として2年目になる年、この時実は今までチームの皆には言ってなかった事がある・・・勿論はやとにもだ・・・。これはレースメカニックとして致命的な事なのかもしれない事だ・・・。
今まで自分が手にかけた物に関しては自己責任として色々改造や整備をしてきたのだが、レース活動に関しては自分が手をかけた物は責任をもって相手(この場合はやと)に安心して乗ってもらうというのが大前提だったのに対し、2005年までは殆ど倫太郎におんぶにだっこだったのもあってその気持ちが今思えば希薄だったのかなって・・・。
その気持ちを改まったのが2006年の開幕戦、富士での出来事である。この時はチーム初めての富士、はやとも大改修後の富士は初めて走るって事で金曜から現地入り。一人では辛いからと最初は倫太郎を呼ぶとこだったのが、さすがに金曜でしかも年度末・・・ちょっと厳しいというので急遽自分が金曜入りに・・・。実は俺も厳しかったけど、会社に急用ができたと嘘を言って(もう時効だしそこの会社もう辞めたし良いよね?ww)なんとか休んで来たという・・・w
はやとと合流しサーキットの偵察、一応REVSPEEDで当時付録でついてた新富士スピードウェイの攻略というのを二人で見て午後はやとが練習走行。その間自分はいつもと変わらず、いつもの作業を淡々とこなしてその日は終了。土曜日に倫太郎が来てフロントブレーキパットとローターを交換するというので、それの補助をすることに・・・。取り付け作業は倫太郎が殆どやってしまい、俺はその工程を目で見てただけ・・・。そしてブレーキオイルのエアー抜きの際、自分がシートに座りペダルを踏む役目をし倫太郎の指示の下ペダルを踏み込んで一通りエアー抜き済んだ所でジャッキアップしたままブレーキの当たりをつけてそのままはやとに予選を走ってもらって帰ってきた時のはやとの開口一番の言葉・・・

「1コーナーで危うく飛び出して死ぬとこだったわ!」

そう、普通にゆっくり走ってる時は分からなかったらしいけど、タイムアタック時に富士のストレートを約200km/h以上で駆け抜け1コーナー進入時に100km/h以下に落とす際、ブレーキパッドの当たりは勿論の事、エアー抜きが不十分だったらしく1コーナーをとびだしてしまったらしい・・・運良くその後は徐々に回復して普通にタイム出してたみたいだったけど、エラい恐怖だったという・・・それを聞いて倫太郎と自分は深く反省し、それからというもの二人でダブルチェックをしフォローし合うというスタンスを取るようになったという・・・
この一件で如何にメカニックの仕事は大変で責任のある事なんだなと気持ちを改める事件でもあった・・・。その後の菅生やもてぎ、富士とスポット参戦であったが参加しドライバーとメカニック共に徐々にだが成長していったのではないかと今となっては思うところである。それらを約2年間やっていよいよ2008年にはスーパー耐久というカテゴリーにステップアップするのであった・・・

続く・・・